2011年12月22日木曜日

ほんと馬鹿!? 「科学」を知らない日本人

少し前ですが、BLOGOSで小飼弾氏の記事『ほんと馬鹿 - 書評 - 科学的とはどういう意味か』を読みました。
この記事にて小飼氏は、 森博嗣氏の著作『科学的とはどういう意味か』に対して、「ほんと馬鹿」と辛辣にコメントしています。
なかなか奥が深く、「科学」の意味を考えるいいきっかけになりました。ようやく考えがまとまってきたので、この場で述べてみます。


森氏は『科学的とはどういう意味か』にて、以下のように述べています。
科学の存在理由。科学の目標とは、人間の幸せである。

それに対して、小飼氏は以下のように述べます。
科学とは、知をもって信をおきかえること
「信じたい」より「知りたい」を優先するのが、科学だ。
幸福というのはあくまで科学の副作用の、そのまた副作用となのであって、それは目的でもなんでもない。いや、だからこそ「目的」よりも強い「宿命」なのかもしれない。

小飼氏の科学観が正しいとは思います。でも、森氏のように考える人は多いのではないかと思います。少なくとも、森氏の本の出版に関わった人間全員が間違いに気がつかなかったわけですし。

なぜ多くの人が間違った科学観を持っているのか、それは、日本では本来あるべき科学観が浸透しなかったためと考えられます。
つまり、西洋で発祥し、発展した科学は「知を持って信を置き換えるもの」であったのですが、日本に導入された際に「役に立つもの」に変わったのです。

本来の科学が「知を持って信を置き換えるもの」であるのは、ガリレオの地動説を巡る宗教裁判を振り返れば理解できるはずです。当時、コペルニクス、ケプラー、ガリレオなどの天文学者は、役に立つものを求めて自らの命を危険にさらしたわけではありません。世界に普遍原理が存在すると信じて、それを解き明かすことこそが、命よりも優先すべき信条でした。これは、神の創造した世界を正しく理解する、という宗教的側面もあります。
彼らの信念は、単純にキリスト教だけを背景にしたわけではなく、キリスト教や哲学を含めたヨーロッパ精神を反映した物であると考えます。よって、近代化によって宗教性が薄まった後も、「知を持って信を置き換える」精神は 欧米人に残ったわけです。


しかし、その精神は日本には浸透しませんでした。理由は二つ考えられます。
 一つは、「科学」を輸入した当時、日本は後発近代化国であったためです。
宮台真司氏は著書『サイファ 覚醒せよ! 世界の新解読のバイブル』にて、以下のように述べています。
分かりやすく言えば、欧米列強が十九世紀後半から急速に世界各国に拡大していく中で、突然科学に、つまりテクノロジーに出会うんです。そのために、同じテクノロジー水準に到達しないと支配されてしまう、植民地になってしまう、というところから、科学を出発させることになったわけです。ですから、基本的には、社会に役に立つことが目的なんですね。

もう一つは、日本人の精神が、先ほど述べたようなヨーロッパ精神とは全く異なるためです。
いろいろな民族が織りなすヨーロッパとは異なり、日本は単一民族が安定して定住していました。生活自体に普遍性があるので、そういう環境では人々は普遍性に対する憧れを持つことはありません。あるのは、自分の生活をどう便利にしていくか、という視点のみです。


こう考えると、本来あるべき科学は日本に未だ浸透していないと言えます。にもかかわらず、私たちは科学をツールとして使い続けます。
同じように、資本主義も民主主義も人権も、私たちはツールとして輸入したに過ぎず、本質を理解せずに使い続けているのかも知れません。
ほんと馬鹿、かもしれません。

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